研究委員会企画シンポジウム 3月16日(土) 14:50-17:20 1310教室

本シンポジウムは、日本スポーツ体育健康科学学術連合の協賛を受けております。

「一般公開」のシンポジウムですので、どなたでも参加料無料で聴講いただけます。


「新しい声」を聞き届けるために考えるべきこと
―スポーツにおける男性性問題のこれから―

男性性問題とは一体何か。それは、意図的であるかどうかに関わらず、男性が自ら持つ権力性やマジョリティ性によって、男性自身を含む他の誰かを傷つけてしまうという「有害な男性性 toxic masculinity」の問題である。スポーツの世界に生きる男性たちは、長年この問題に苦しみ続けてきた。彼らは、脱ぎ捨てるべきはずの鎧を脱ぎ捨てることができないジレンマに追われ続けてきたのである。
ところがここ数年、スポーツと男性性をめぐって興味深い変化が起こり始めている。その象徴が、前回の夏の甲子園で優勝した慶応義塾高校である。彼らの掲げた「エンジョイ・ ベースボール」の姿勢は、練習中や試合中に「笑顔を見せてはならない」、指導者や上級に「逆らってはいけない」、高校球児は「丸坊主でなければならない」といった男性的なスポーツ観に対する強烈なアンチテーゼとなった。そして現在、彼らの「エンジョイ」という声(信条)はさまざまなスポーツクラブに届き、クラブのあり方を変化させつつある。
また、あまり知られていないかもしれないが、日本ラグビーフットボール選手会が中心となってはじめた「よわいはつよいプロジェクト」も変化を示す現象の一つである。このプロジェクトは、(主に男性の)アスリートにも心のケアが必要であることを広く伝えていく、アスリート自身による草の根の活動である。アスリートには、心身ともに強いというイメージがあるが、しかし実際にはそうではなく、多くのアスリートがメンタル不調を抱えている。このプロジェクトは、そうした心に不安を抱えるアスリートの声をひとつひとつ聞き届けることによって、誰もが弱音を吐けるスポーツ環境を作ることを目指している。
このように近年では、スポーツが抱えてきた男性性問題に対する「新しい声」がいくつも表出するようになった。こうした新しい時代の新しい声を聞き届けることこそが、「有害」 とされている男性的なスポーツの世界を変える大きな一歩となる。そのためにスポーツ社会学は、その声がどこから生まれ、男性性問題に対してどのようなインパクトがあるのか、 旧態依然とした男性的なスポーツ環境を変化させるにはさらに何が必要であるかを思考していかなければならないだろう。
研究委員会では、こうした問題について考えるために、現代の男性性問題についてフェミニズムの視座から重要な指摘を行っている河野真太郎氏、スポーツの「マチヅモ」問題 に対して鋭い批評を行っている武田砂鉄氏、そして日本の体育会系問題についてジェンダ ー視点から重要な研究を行っている片岡栄美氏の 3 名をお招きし、シンポジウムを開催することとした。シンポジウムを通じて、スポーツ男性性研究に新しい風を吹き込み、より豊潤な議論ができる土台を作ることを目指したい。

登壇者
 河野 真太郎 専修大学
 武田 砂鉄 批評家、フリーライター
 片岡 栄美 駒澤大学
ディスカッサント
 竹﨑 一真 明治大学
司 会
 溝口 紀子 日本女子体育大学

クリップ・セオリーから考えるスポーツと男性性

河野真太郎 専修大学

 スポーツが強力にジェンダー化されているというのは否定しがたい事実であるが、本発表ではその事実に批判的にアプローチするための手段として、いわゆる「クリップ・セオリー」を提案・検討したい。クリップ・セオリーは障害学とクィア・セオリーの交差点に生まれた理論であるとまずは要約できる。スポーツのある部分が男性性(マスキュリニティ)と健常身体性を規範としつつ、同時にそのような規範を生み出すものだとすれば、クリップ・セオリーはそのような二重の規範性に対するインターセクショナルな批判となるはずだ。本発表ではクリップ・セオリーの基本的な紹介をしつつ、とりわけその旗手の一人であるロバート・マクルーア(Robert McRuer)の仕事に依拠してこの主題を深めてみたい。カルチュラル・スタディーズの手法もベースとしているマクルーアは、著書Crip Timesの第一章で2012年のロンドン・オリンピック/パラリンピックについて、とりわけ南アフリカの両足義足の短距離走者オスカー・ピストリウスの表象、そして彼がその後犯した殺人事件のグローバルな表象と受容に注目して論じている。そこではディスアビリティ(障害)のスペクタクル化と、その裏側で障害者の表象からの排除抑圧が問題とされていく。マクルーアは、新自由主義的な緊縮財政(austerity)と障害者表象の貧しさ(austerity)とを一体のものとして論じ、これらの表象メカニズムを社会経済的に文脈づけてみせる。本発表ではマクルーアの議論を参照しつつ、クリップ・セオリーがスポーツと男性性の表象分析にいかに有用であるかと示したいと考えている。

マチズモに頼り続ける社会

武田砂鉄(ライター)

2021年、『マチズモを削り取れ』と題した本を刊行した。「マチズモ=男性優位主義」について、学術的に分析するのではなく、日常的な場面でどのようにマチズモが機能しているのか、残っているのか、あるいは他者の振る舞いを力づくで制限しているのかを観察・取材した。ジェンダーギャップ指数が先進国の中で最下位を記録し続けているこの国の「体質」としての「マチズモ」を考えた時、繰り返し問う必要にかられたのがスポーツの世界だった。東京オリンピック・パラリンピックをめぐる複数の不祥事や問題発言、スポーツ界に残り続けるハラスメント、スポーツをめぐるメディア報道の類型化などの具体例を並べながら、今、「男性性」をどのように直視し、改善する道があるのかを考えたい。なぜ、最終的にはマチズモにすがってしまうのか、払拭できないのか、スポーツ界の問題点を軸に問い直す。

スポーツと体育会系ハビトゥスおよび男性間の象徴闘争

片岡 栄美(駒澤大学)

スポーツによる訓練は根性、努力、勝利への意思、強靱な身体と精神、自立性という「男性的」特性をもたらすと信じられ、教育の重要な分野となって、経済・労働市場から評価される人材を輩出してきたことも事実である。根拠の弱いきびしい規律や理不尽な慣習によって生徒・学生を縛り付けてきたスポーツ界も、民主的で科学的な指導へと変化してきたとも言われるが、この問題を根底で支えている社会全体での男性支配や象徴的暴力の日本的特徴についてブルデュー理論とデータを用いて検討する。スポーツを礼賛する人々やそれを体育会系ハビトゥスとして内面化した者は、スポーツ至上主義を掲げ、スポーツ弱者やスポーツ嫌いの男性、そして女性性を劣位に見る傾向が繰り返し現代でも確認されている。多くの女性はスポーツ男子の生き方を自分達とは関係のない社会ゲームとして無視するか、逆に暗黙のうちに支持・サポートし、男性を競争主義とスポーツ能力至上主義、そして出世競争の罠に送り込む。この社会ゲームに参加した若者は、自己犠牲的に自らを訓練に捧げることを要求する指導者や組織の下では、理不尽さに耐えながらも男らしさのアイデンティティ獲得と身体能力の増強(さらには用意された未来の社会的成功)をめざして邁進するが、このゲームから降りることは男性としての不名誉と恥辱につながるので、理不尽な経験も自ら美徳や美談にかえてしまう。快楽主義の拡大、省エネの生き方が広がる中、子どもの成長のためにスポーツを礼賛する親たちも共犯者となっている。他方でスポーツから排除された経験をもつ男性によるオタクの逆襲という男性間での象徴闘争も重要である。日本の体育会系ハビトゥスと他のハビトゥスをもつ者達との関係性を中心にデータに基づいて論じ、さらにはスポーツ選手の疑似的自立性問題についても検討したい。