学会長挨拶 リスク社会とスポーツ社会学
―第 31 回学会大会に寄せて―  菊幸一(筑波大学)

 「リスク社会」―この言葉自体は、ご存じのようにドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが 20 世紀後半に提示した近代社会におけるリスク分配の論理とそれに対応する再帰的近代の、いわば「自業自得」といった近代性の自己加害の諸相に言及したものです。この諸相にかかわるリスクは、彼の理論とその予言通り、21 世紀の今日、ありとあらゆる我々の生活の側面に噴出し始めています。
 その 1 つとしての新型コロナ感染症は、現に地球全体をリスク化し、その不安はベックが主張する世界の新たな連帯を生み出す方向とは逆に、止めようもない分断を生み出す方向をも生み出しているように思われます。この感染下で行われた「東京 2020」オリンピック大会においても、その是非をめぐってさまざまな意見が交わされましたが、スポーツ社会学からの評価は今後に残された課題です。

 さて、「リスク」と言えば、本稿を執筆しているこの間にも、ウクライナではロシアによる大規模な軍事侵攻が行われており、まさに「戦争の 20 世紀」に逆戻りした感があります。直ちにこのような愚行を止めさせなければならないのですが、スポーツを社会学的に研究する我々にできることは何なのか、さらにスポーツ社会学はこのような事態に際してどのような影響力を発揮できるのかについて、日々自問せざるをえません。ノルベルト・エリアスは、近代国民国家(modern nation-states)とは、暴力と税の 2 つの「独占」によって成立しており、それが必然的に states(制度やしくみ)としての国家/間の figuration の在り様によって暴力を発現させる de-civilizing process に転じる可能性を述べています。これに対しスポーツの文明化(civilizing process)とは、このような国家の独占的なしくみを制御する議会制主義(parliamentarism)と同じコンテキストの中で社会発生するものであり、いわば民主主義社会とスポーツは同じ社会的性格を有していると論じています。だとすれば、そのようなスポーツの社会的性格を論じるスポーツ社会学は、nation と states を切り離す非民主主義的な現実政治に対する愚行をスポーツの文化的・社会的側面から批判的に検討するフィールドであると考えることができるかもしれません。

 本学会大会は他の学会と同様に、感染症の影響を受けて、これまで第 29 回大会(秋田大学)、第 30 回記念大会(京都産業大学)と 2 回(2 年)に及ぶオンライン開催を余儀なくされました。これを受けて第 31 回大会を主催する東海大学では、実行委員長である高尾会員のもと、何とか対面で会員が分断されることなく自由に集える、かつての学会開催を模索してきた経緯があります。しかしながら、第 6 波のオミクロン株の猛威はその実現を阻むこととなり、残念ながら一般発表はオンデマンド方式、シンポジウム等は双方向型のオンライン方式に切り替えざるを得なくなりました。この間、対面とオンラインの双方で準備を進めていただいた東海大学を中心とする実行委員会の皆さんには、会員を代表して御礼を申し上げたいと思います。

 このような厳しい条件下での第 31 回大会ではありますが、本大会が社会におけるスポーツ社会学の在り方や役割を改めて考える契機となれば幸いです。