クリップ・セオリーから考えるスポーツと男性性

河野真太郎 専修大学

 スポーツが強力にジェンダー化されているというのは否定しがたい事実であるが、本発表ではその事実に批判的にアプローチするための手段として、いわゆる「クリップ・セオリー」を提案・検討したい。クリップ・セオリーは障害学とクィア・セオリーの交差点に生まれた理論であるとまずは要約できる。スポーツのある部分が男性性(マスキュリニティ)と健常身体性を規範としつつ、同時にそのような規範を生み出すものだとすれば、クリップ・セオリーはそのような二重の規範性に対するインターセクショナルな批判となるはずだ。本発表ではクリップ・セオリーの基本的な紹介をしつつ、とりわけその旗手の一人であるロバート・マクルーア(Robert McRuer)の仕事に依拠してこの主題を深めてみたい。カルチュラル・スタディーズの手法もベースとしているマクルーアは、著書Crip Timesの第一章で2012年のロンドン・オリンピック/パラリンピックについて、とりわけ南アフリカの両足義足の短距離走者オスカー・ピストリウスの表象、そして彼がその後犯した殺人事件のグローバルな表象と受容に注目して論じている。そこではディスアビリティ(障害)のスペクタクル化と、その裏側で障害者の表象からの排除抑圧が問題とされていく。マクルーアは、新自由主義的な緊縮財政(austerity)と障害者表象の貧しさ(austerity)とを一体のものとして論じ、これらの表象メカニズムを社会経済的に文脈づけてみせる。本発表ではマクルーアの議論を参照しつつ、クリップ・セオリーがスポーツと男性性の表象分析にいかに有用であるかと示したいと考えている。